20代と30代の狭間で

20代から30代に突入したとある日本人男子の雑記

完成と変容

時間が流れ、地球上で我々が人間としての営みを続ける限り、歴史に完成はないのかもしれないが、ヨーロッパ的な考え方・認識の仕方がひとしきり世界に浸透し、実装された今、これをひとつの完成と呼ぶのであれば、これから始まるのは完成した後の世界だ

完成というより区切りという感覚に近いかもしれない

いずれにしても、ここから始まるのは完成したものの変容である

変容とは、姿形が変わること

これまでとは違う何かに変わっていくだろう

完成したものが変わらない可能性はあるか?

いや、ないだろう

人が様々な人間関係のなかで動く限り、ないだろう

つまり、今は完成に向かって進んでいるというよりも、一度完成したものの変容が進んでいると認識した方が良いのではないか

完成に向かって進んでいるというと、何か確固たる目指す姿があって、紆余曲折あれど、進むべき道や方向が見えているというニュアンスがある

しかし、実際はどうだろう

年々我々はどこに進むべきか見通しにくくなっていないだろうか?

そう考えると、やはりそれぞれがそれぞれの価値観や認識のもと、これまでの完成したものを土台にしながら変容を始めている、または完成したもの自体を変容させようとしている

そんな風に思えるのである

そうなると、何が今までと一番違うかというと、

個人の価値観や認識により重みが置かれていくので、例えば進むべき道を無理矢理見通そうと思っても周囲の理解が得られないとか、得られにくくなることも起こるし、そもそも変容の全体像を想像し、捉えることすら、非常に体力の必要な営みとなる

個人の認識に基づいて変容し続ける世界の全体像を捉えようとしていたら、一生かかっても終わらないエンドレスな作業となる

そしてその割に自分の変容や自分の置かれた状況・環境の変容に気づかず、そもそも幸せな人生を送ることに影響が出てしまう可能性がある

 

僕は世界を理解したいという根源的な欲求があるが、今の社会はこれまでにも増してそれが難しい

情報は溢れすぎているし、世界との距離は縮まっている

世界を理解する上での解像度をある意味高めやすいからこそ、逆に理解し切ったという感覚を得難いのだ

 

そういう意味でも、世界を捉えることはほどほどにして、あえて特定の世界に入り込んでそこから世界を見渡すというのも必要なのではないか

マクロとミクロの往復運動かもしれない

いずれにしても、僕は完成したあとの変容の時代において、自分の変容の道を模索している

企業はいつコンサルを使うべきか

コンサルはあくまでも支援会社である

最近は教科書的なべき論を提示するのではなく、現場の実装まで伴走することを強調することが増えてきていると思われる

AI等の登場で、課題を分析する精度が高まり、企業ごとの個別具体的な課題まで踏み込んで考えられるようになってきたこと、一般的な解決策や打ち手は一通り実施したうえでそれでも解決できなかった課題が残っていること等から、最終的な解決策の実装と成果の確認部分まで、求められることが多くなっているのではないだろうか

これはすごく良いことだ

コンサルにはその業界に精通したプロフェッショナルが沢山いるが、実際にその業界のなかで日々働いているわけではなく、個別企業の真の現場を現在進行形で体験しているわけではない

なので、どうしてもコンサルに支援を求める側とコンサル側では課題やファクトに対する解像度の違いや受け止め方の違いが生まれる

ただこれもとても良いことで、コンサルの方が多角的かつ客観的に物事を見れることも多いと思う

 

そのようなコンサルが持つ本来の提供価値の側面と、課題の分析精度向上による多様化・複雑化の側面とを踏まえ、では今の世の中、企業はコンサルをどう活用すべきだろう

 

答えはひとつではないが、まだまだ一般的に意識されていないと感じることとして

「有事ではなく平時、立ち上げ時ではなく構想時にコンサルを使って、双方コストを極力抑えつつ課題の芽を摘み取る」

ということである

 

大体コンサルに支援を依頼するときには手遅れだったり、課題が火を見るよりも明らかな規模になってからであることが多い

これは分かっていても、平時にコンサルにわざわざお金を払ってまで何かをお願いする経営判断になりづらいからだ

しかし、実際にコンサルが少し入ったくらいで解決できないくらい課題が肥大化・複雑化しているとした場合、コンサルを起用したのに解決できなかった、役に立たなかったという結論に陥り、今後より一層コンサルを活用するという経営判断を躊躇してしまう恐れがある

コンサルアレルギーが発症してしまうのだ

コンサル活用の経営判断の遅延は、結果として課題の未処理、双方の満足度低下につながり、投資判断として不適切という社内の結論が導き出されてしまうだろう

 

コンサルは課題を解決する集団だという認識がある人も多いと思うし、その通りなのであるが、これからはコンサルも企業も何も起きていないときにこそ手を取り、本当に有事に発展しそうな課題はないかを点検するとともに、経営的にもマインド的にも健康なときに強い企業運営とは?より高みを目指すにはどうしたら良いか?などを議論できると良いのではないだろうか

この状況を生み出すのは自分の性格なのか

今板挟みになることが多く、誰しもそのような状況は多々経験すると思うが、毎回自分の気持ちや思いよりも相手同士の腹落ち感や納得感を優先しながら解決に走ることが多い。

それは間に立ってしまっている以上、当たり前といえば当たり前の動きなのかもしれないが、自分の意志が弱いことや決断力が不足していることが、もしこのような状況を招いているのであれば、やはり自己改善が必要となるだろう。

しかし、大抵の場合、自分の意志や意向というのは最初から決まっていて、僕から見ると何か決められていないから板挟みになっているのではなく、もう自分の意向ははっきりしているのになぜかそれを賛成すると反対する人の間に立たされたり、物事を前に進めようとした際にこれまでにない意見が出てきて一旦交通整理をする必要が出てきたりするのだ。

こういうのは何が原因なのだろう。

少なくとも、自分がこうしたい/こうしようということに対してブレーキがかかっている状態なので、やはり自分の詰めが甘いというか、関係者に理解してもらうための説明力が弱いのだろうか。

人間関係でもめることは避けたいというのが一番念頭にあることだが、だんだんそれを最優先に動くことが億劫になってきた。

今から自分の性格を変えることはできるのか、変える必要はあるのか。

今の自分は、周りが色々言いやすい(基本的に怒ることはないし、人の話は聞くようにしているからだ)側面はあると自覚している。

個人の心情/信条

冷静にいこう。

批判も称賛も、受け止めはするが、一喜一憂しない。

強くいこう。

自信もプライドも、持ちはするが、驕り高ぶらない。

客観的にいこう。

若手でもベテランでもあるが、常に高みを目指しながら、自分のやるべきことを着実に進めよう。

寛容にいこう。

家庭も仕事も、大事にはするが、自分を捨てない。そのために広い心を持とう。

 

僕は僕なのだ。僕以上でもなく僕以下でもない。

それでこそ僕なのだ。

表裏一体

つい興味関心が大してあるわけでもないのに、一生懸命になってしまうことはないだろうか?

その瞬間は一生懸命なので自覚はないのだが、あとからふと思い返してみると、虚しさや疲労感を感じることがある。

これはいつか自分にとってプラスになるのだろうかと、自分の性格を半分は賛美し、半分は疑問視する。

誰でもできることだとは思っていない。だからこそ賛美する。しかし一方で、その瞬間僕の限りある人生はその大して興味関心のないことに注がれたのだ。

悪いことではないと、自分に言い聞かせたいだけではなかろうか。

そんなふうにも思う。

こればかりは答えがない。自分の選択を正解にしていくしかない。

いつかこれが自分にとって必要な時間だったのだと思うために。