冷静にいこう。
批判も称賛も、受け止めはするが、一喜一憂しない。
強くいこう。
自信もプライドも、持ちはするが、驕り高ぶらない。
客観的にいこう。
若手でもベテランでもあるが、常に高みを目指しながら、自分のやるべきことを着実に進めよう。
寛容にいこう。
家庭も仕事も、大事にはするが、自分を捨てない。そのために広い心を持とう。
僕は僕なのだ。僕以上でもなく僕以下でもない。
それでこそ僕なのだ。
冷静にいこう。
批判も称賛も、受け止めはするが、一喜一憂しない。
強くいこう。
自信もプライドも、持ちはするが、驕り高ぶらない。
客観的にいこう。
若手でもベテランでもあるが、常に高みを目指しながら、自分のやるべきことを着実に進めよう。
寛容にいこう。
家庭も仕事も、大事にはするが、自分を捨てない。そのために広い心を持とう。
僕は僕なのだ。僕以上でもなく僕以下でもない。
それでこそ僕なのだ。
つい興味関心が大してあるわけでもないのに、一生懸命になってしまうことはないだろうか?
その瞬間は一生懸命なので自覚はないのだが、あとからふと思い返してみると、虚しさや疲労感を感じることがある。
これはいつか自分にとってプラスになるのだろうかと、自分の性格を半分は賛美し、半分は疑問視する。
誰でもできることだとは思っていない。だからこそ賛美する。しかし一方で、その瞬間僕の限りある人生はその大して興味関心のないことに注がれたのだ。
悪いことではないと、自分に言い聞かせたいだけではなかろうか。
そんなふうにも思う。
こればかりは答えがない。自分の選択を正解にしていくしかない。
いつかこれが自分にとって必要な時間だったのだと思うために。
仕事で疲れた時、耳元から流れる洋楽のソフトでほどほどなテンポで、程良くノリが良く、気軽に聴き流せるEDMが異様に心地よい。
ゆっくり、でも着実にヒールされて、元気が付いてくる感じ。
あえて先のことを考えずに働く
そんな戦略を僕は取っている。取らざるを得ない状況になっている
理由は様々であるが、自分の性格的にそれがあまり苦にならない(好奇心やまだ見ぬものを求めるワクワク感が高いことにより、先のことを詳細に考えていなくても耐えられる性格)ということもあるが、先のことを考えても仕方がない(なぜなら今の組織体制や全体方針に対する決定権が自分になく、考えても不安や疑問が膨らむだけだから)という部分が大きい
つまり、この組織で働き続けるならば、とりあえず今の時点では、「目の前の自分が影響を及ばせる範囲のことだけに集中し、とりあえず目の前の仕事をこなす」のが最善策というわけだ
もちろんこれが自分の求めている解決策ではないし、たとえ人よりもあまり細かいことを気にしない性格で、将来を見る目も比較的楽観思考な人間であったとしても、将来のことは常にきちんと考えるべきであるというのは理解している
見方を変えれば、今僕はある種目の前のことしか見えなくなるような麻薬を打って日々の仕事に打ち込んでいるようなもの
薬が切れれば、ふと我に返り、長期的な視点で自分のことを考えていないことに対する不安や後悔、それを許し、甘んじてしまう自分の性格に対して罪の意識が芽生える
その罪の意識を背負ったまま生きるのはしんどいし、自分ひとりで考えても(どうしようもできないもん)な、、という虚しさが襲うため、また麻薬を投与するように目の前の仕事のことだけを考える
こういう負の連鎖から徐々に抜けられなくなってきている・きてしまうのではないかと、ふと思う
この負の連鎖の先に待っているのは、ネガティブな意味での「今の会社へのしがみつき、依存」である
組織に迎合するなんて、日本のこの忖度社会・空気の読み合わせ社会に迎合するなんて、自分のスタイルではない、流儀ではない
そんなことを20代なら思っていたかもしれない
さて、30代から40代に移ろいゆくなかで、どういう意思を示すか、自分が自分たらしめる価値観とは何か、それすら移ろいゆくものであろうが、きちんと持つべきものを持つ必要が出てきた
それは会社のためでも社会のためでもない、なんなら家族のためでもないかもしれない
自分のためだ
NHKの映像の世紀・バタフライエフェクトを観ている
大統領を警護するアメリカのシークレットサービスの話
歴史を振り返ると、元々大統領だけを警護していたシークレットサービスの警護対象者の数はどんどん増えている
そしてさらに、テロ対策等、想定すべき事態の対象も拡大している
一方シークレットサービスの国家予算は減らされていて、採用よりも離職が目立つらしい
これを見ていると、本当に我々の生きているこの世の中は平和になっているのか
シンプルにそう感じる
我々の生活は、より良い方向に、より平和な方向に、より豊かな方向に向かうはずではなかったのだろうか
自分は少なくともそのために世の中にはどんどん便利な技術が登場したり、衛生環境が良くなったり、危険な仕事は機械ができるようになったりして、(世界的に見て)人口が増え、経済や社会が発展する未来に向けて歩んでいるのだと思っていた
このように考えると、民族、文化、宗教等のどれだけ世の中が便利になろうとも変えがたい事実によって、シークレットサービスの活動が多様化したり、複雑化しているのであれば、生活が便利になったり、清潔になったりすることは、平和とは根本的な部分では関係ないということになってしまうのではないか?
それは悲しすぎる
でもそういう一面は無いとは言えないだろう
事実今も大統領は常に危険にさらされる存在だし、もっと言えば国同士の命の奪い合いも絶えない
終わりのない旅ではあるが、僕はやはりそこの根本の部分を解き明かし、紐を解くようなアプローチに貢献したい
最近思いついたことをメモ
コンサルに求められる本質的な能力
突き詰めると
・文章力
・人間力
だと思う
ビジネスの成否や是非を判断する軸
・現実性(現実的だから良い、非現実的だから悪いというわけではなく、どれくらい未来の話なのかを判断する軸として)
・計画性(リソース計画等も含めたそのビジネス全体の進行スケジュールがどれだけ練られているか)
・再現性(別のタイミング、別のメンバーでも続けていけるものなのか、属人的になっていないか)
この3軸の練度やバランスがどうなっているか
それが重要
新年初記事
以下は自分の思考の整理も兼ねた記事である
いきなりであるが、
「世界に挑戦する会社」と「地域に貢献する会社」どちらが良いか
どちらも良い
何なら世界に挑戦して成功することで、結果的に地域に貢献するというストーリーは個人的にとても共感するところである
一方で、地域に貢献する会社の場合、どのような手段で地域に貢献したいと考えているのかによって、僕個人としての興味関心度合いは変わってくる
例えば自分の出身地や何かしらの縁や所縁がある土地に対して貢献しようとしている会社であれば多少見方が変わるかもしれない
しかし、例えば自分が全く土地勘のない場所で地域貢献に勤しむ会社に対して、何か自分事化して考えるとか感情を入れ込むようなことは、正直なかなか難しい
僕の場合はやはりどちらかといえば、世界に挑戦し、世界から評価される会社になりたいという高い志とパッションを持つ人と付き合っていきたいし、そういう人たちに関与する方がよりポジティブなインパクトをもたらすことができると感じる
そして、自分の存在価値を高めつつ、自分に対しても大きなハードルを設定し、それを乗り越えて成長していくのが良いのではないか