時間が流れ、地球上で我々が人間としての営みを続ける限り、歴史に完成はないのかもしれないが、ヨーロッパ的な考え方・認識の仕方がひとしきり世界に浸透し、実装された今、これをひとつの完成と呼ぶのであれば、これから始まるのは完成した後の世界だ
完成というより区切りという感覚に近いかもしれない
いずれにしても、ここから始まるのは完成したものの変容である
変容とは、姿形が変わること
これまでとは違う何かに変わっていくだろう
完成したものが変わらない可能性はあるか?
いや、ないだろう
人が様々な人間関係のなかで動く限り、ないだろう
つまり、今は完成に向かって進んでいるというよりも、一度完成したものの変容が進んでいると認識した方が良いのではないか
完成に向かって進んでいるというと、何か確固たる目指す姿があって、紆余曲折あれど、進むべき道や方向が見えているというニュアンスがある
しかし、実際はどうだろう
年々我々はどこに進むべきか見通しにくくなっていないだろうか?
そう考えると、やはりそれぞれがそれぞれの価値観や認識のもと、これまでの完成したものを土台にしながら変容を始めている、または完成したもの自体を変容させようとしている
そんな風に思えるのである
そうなると、何が今までと一番違うかというと、
個人の価値観や認識により重みが置かれていくので、例えば進むべき道を無理矢理見通そうと思っても周囲の理解が得られないとか、得られにくくなることも起こるし、そもそも変容の全体像を想像し、捉えることすら、非常に体力の必要な営みとなる
個人の認識に基づいて変容し続ける世界の全体像を捉えようとしていたら、一生かかっても終わらないエンドレスな作業となる
そしてその割に自分の変容や自分の置かれた状況・環境の変容に気づかず、そもそも幸せな人生を送ることに影響が出てしまう可能性がある
僕は世界を理解したいという根源的な欲求があるが、今の社会はこれまでにも増してそれが難しい
情報は溢れすぎているし、世界との距離は縮まっている
世界を理解する上での解像度をある意味高めやすいからこそ、逆に理解し切ったという感覚を得難いのだ
そういう意味でも、世界を捉えることはほどほどにして、あえて特定の世界に入り込んでそこから世界を見渡すというのも必要なのではないか
マクロとミクロの往復運動かもしれない
いずれにしても、僕は完成したあとの変容の時代において、自分の変容の道を模索している